モノクロ写真の十代は、カメラから目をそらさない。ネクタイはゆるく、制服は体に合わせて直してある。ニット帽をかぶり、あるいはチェックのジャケットをはおって、何でもないように正面を見る。Sung Jin Parkの新しい写真集《Kid Echo》に収められた人たちだ。2000年代のソウルの新沙洞(Sinsa-dong)、加里峰(Garibong)、清凉里(Cheongnyangni)、往十里(Wangsimni)、明洞(Myeong-dong)で出会った。

撮影から二十年以上がたった。それでも写真は、ある時代の流行を伝える資料では終わらない。フレームの中の人たちは今も、誰かを待っているか、いまにも路地を抜けていきそうな姿で立っている。

2014年には本に入れられなかった

《Kid Echo》は、ニューヨークの独立系写真集出版社Session Pressが2026年9月に刊行した152ページのハードカバーだ。収録された写真はすべて初公開である。Sung Jin Parkの代表作《Kid Nostalgia》(2014)と同じ時期に撮ったが、当時の本には入らなかった。

理由は写真の外にあった。作家はAnOtherのインタビューで、当時のソウルではこれらの写真が韓国の十代の姿として「ふさわしい」と受け取られないおそれがあると判断した、と語っている。当時のソウルでは、こうした本を出すこと自体も簡単ではなかった。写真は変わらずそこにあった。それを見る目が、まだなかったのだ。

チェックのジャケットに白いシャツ、黒いニット帽の男子学生が、壁にもたれて少しあごを上げ、カメラを見ている。右の電柱には引っ越しや軽貨物運送の電話番号ステッカーがびっしりと貼られている。
〈Shinsa-dong, 2001〉。電柱に貼られた引っ越し・運送のステッカーの横で、ニット帽の学生が少しあごを上げる。© Sung Jin Park, courtesy of Session Press

制服の中でつくった、それぞれのかたち

写真の制服は、全員を同じにそろえる服であり、同時にそれぞれの好みを見せる素材でもある。作家の記憶では、男子学生はズボンをベルボトムのように広げてはくか、逆にごく細く詰めていた。江南の一部の学生は、制服をヒップホップ風に着崩した。女子学生は2006年から2007年ごろから、長いスカートのウエストを巻き上げてミニスカートのようにはいた。校門の中では、また膝まで下ろさなければならなかった。同じ規則の下で、一人ひとりが少しずつ手を加えた跡。それがこの写真のリズムをつくっている。

明洞の路地の食堂の前に、男子学生が二人立っている。二人とも白いシャツにネクタイを締め、左の学生は裾の広い黒のベルボトムをはいている。手前には、ユッケジャンとカルグクスを書いた縦長の立て看板がある。
〈Myeong-dong, 2006〉。左の学生のズボンは、裾に向かって広がっている。手前にはユッケジャンとカルグクスを書いた立て看板が立つ。© Sung Jin Park, courtesy of Session Press

とはいえ、作家は彼らを何かのサブカルチャーの標本としてまとめはしない。撮りながら見ていたのは、制服そのものより、制服の着方だった。姿勢や表情、視線に一瞬よぎる感情の張りつめである。Session Pressは、Sung Jin Parkが見つけたものを「感情の瞬間」と紹介している。アンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」とは違う。構図が完成したり物語が締めくくられたりする瞬間ではない。撮られる人が緊張を解いたときに現れる存在感に近い。

白いタイルの壁に、女子学生が二人もたれて立っている。左の学生は半袖シャツにチェックのネクタイ、裾にレースのついた短いチェックのスカート。右の学生は黒いワンピースの上にシャツの襟を出している。
〈Wangsimni, 2008〉。左の学生の短いチェックのスカートの裾に、レースがついている。© Sung Jin Park, courtesy of Session Press

小さな暗室で現像したモノクロ

Sung Jin Parkはソウルで生まれ、1987年、十代でニューヨークに渡った。プラット・インスティテュート(Pratt Institute)で絵画と写真を学び、韓国に戻ってからは、ソウルとその周辺を歩いて出会った十代を撮った。

なぜモノクロだったのか。作家は、モノクロが自然に感じられたし、小さな暗室でも自分で現像できるのがよかったと語った。一方で、モノクロ写真は「完全には現実的でない」とも考えている。看板も制服も路地も撮ったが、色を抜くと、写真はある年の風俗の記録から一歩外れる。残るのは顔の明るさ、壁や布地の質感、異なる黒と黒のあいだの階調だ。

その階調は本の紙へと続く。作家自身が編集した《Kid Echo》は、厚手のマット紙に印刷された。《Kid Nostalgia》が後ろ姿や体の一部、周囲の風景まで織り交ぜていたのに対し、新しい本は正面を向いた人物写真に長くとどまる。写真はSession Pressを設立したMiwa Susudaと作家が一緒に選び、ほとんどが正面からの肖像だ。読者はある時代の「若者文化」を眺めわたすより、一人ずつ目を合わせながらページをめくることになる。

選挙ポスターがずらりと貼られた壁の前に、男子学生が二人立っている。左の学生は半袖の制服シャツ姿、右の学生は「NORTH READING」と書かれた黒いTシャツを着て、上着を手に持っている。二人とも前髪を長く下ろしている。
〈Garibong, 2006〉。候補者の笑顔が並ぶ選挙ポスターの前で、二人の学生は笑わない。© Sung Jin Park, courtesy of Session Press

二十年後にようやくできた編集

《Kid Echo》が興味深いのは、昔のフィルムが今に届くその届き方にある。撮影当時は反応の薄かった写真が、2024年末か2025年初め、Miwa Susudaから連絡を受けたことで再び取り出された。作家がフィルムを捨てずに残していたこと。そして本を出す環境と十代を見るまなざしが変わったこと。二冊目の本は、その二つが重なって生まれた。

だからといって、写真が今の目に合わせたきれいな社会史に整理されるわけではない。作家は、韓国現代史の象徴を意識して撮ったのではないと言う。ソウルという場所の色と、どこでも繰り返される青春の感覚が、一緒に見えていただけだ。写真の人たちは「2000年代の韓国の十代」という説明に収まりながら、その説明よりも大きい。カメラの前で、この十代は自分がどう見えるかを知っていた。決められた服装の中で、自分自身をつくっていたのである。

粗いセメントの壁の前に座った学生が、カメラをまっすぐ見ている。前髪をまっすぐに切りそろえ、白いTシャツの上にザ・ノース・フェイスの黒いウインドブレーカーをはおっている。
〈Cheongnyangni, 2007〉。切りそろえた前髪の下から、学生がカメラをまっすぐ見る。胸にザ・ノース・フェイスのロゴが見える。© Sung Jin Park, courtesy of Session Press

二十年ほどたってこれらの写真を見直し、作家は自分もあの子たちの中にいたような気がすると語った。今では彼も、ほかの人と同じように外側から写真を見る。それでも写真の中には、撮られた側と撮った側の成長の痛みがともに残っている。《Kid Echo》は、過ぎた日々をきれいに包むノスタルジーでは終わらない。どんな顔が一つの時代を代表してよいとされたのか、どんな写真が本から外されたのかを見せる。そして、残しておいたフィルムをもう一度広げたとき、過去の意味がどう変わるのかも。

書籍情報

《Kid Echo》の表紙。白地に、制服姿の女子学生二人が並んで立つモノクロ写真が載っている。左の学生はカメラを見て、右の学生はアイスクリームをくわえている。左側の縦の帯にKid Echo、Park Sung Jin、Sessionと記されている。
《Kid Echo》の表紙。デザイン Alex Lin(Studio Lin)。© Sung Jin Park, courtesy of Session Press

本の紹介と購入はSession Pressの書籍ページで、作家のインタビューはAnOtherの記事で読める。