ナンシー・レックスロス(Nancy Rexroth)の初の回顧展《Secrets of My Power》が、10月2日に米国のシンシナティ美術館で開かれる。写真と私物、制作の道具と記録をあわせて150点を超える。その多くは、ほとんど展示されたことがないか、初めて公開されるものだ。美術館はこの展示で、彼女の作品《IOWA》の50周年を記念する。

《IOWA》はダイアナカメラで撮った写真集だ。プラスチックのボディにプラスチックのレンズが一枚、おもちゃとして売られていたカメラである。写真はぼけていて、四隅は暗い。そのためこの写真集は長いあいだ、トイカメラ写真の出発点のように紹介されてきた。ところがレックスロスが残した言葉と制作の記録を読むと、話は変わってくる。ぼけは、カメラが勝手につくってくれたものではなかった。

大学院生が手に取ったおもちゃ

レックスロスは1946年に生まれ、バージニア州アーリントンで育った。1969年、オハイオ大学の大学院で、講師がニューヨークのチャイナタウンで買ってきたダイアナに初めて触れた。ダイアナは1960年代に香港のあるプラスチック工場でつくられたカメラで、120ロールフィルムに一辺4センチほどの正方形を写す。シャッターは瞬間とバルブの二つだけで、同じモデルでも一台ごとにピントも光漏れもばらばらだった。

レックスロスは、このカメラの欠点を歓迎したのだろうか。2011年に写真家ブレイク・アンドリュースと交わしたインタビューで、彼女は光漏れも、不正確なファインダーも、パララックスも歓迎しなかったと語っている。以前使っていたニコンの一眼レフのように、写る画面を正確に見られないのが不便だったし、構図は変わらず大事だった。彼女がこだわったのは、そのカメラで何ができるかだった。"It was not the camera but what could be done with it."(カメラではなく、それで何ができるかだった)

オハイオの田舎家の前の草地。少年が一人、両腕を広げて宙に浮かび、その下の土手で子どもが二人遊んでいる。背後に白い板壁の家と葉のない木がぼんやり見える。
〈Boys Flying, Amesville, Ohio〉(1976)。土手から跳び上がった子どもが、両腕を広げたまま宙に止まっている。© The 1988 Rexroth Family Trust

オハイオで撮ったアイオワ

1970年から1976年まで、レックスロスはオハイオ南東部の小さな町をめぐった。家と子どもたち、家族と木を撮った。ケンタッキーで撮った写真も何枚か混じっている。《IOWA》というタイトルとは違い、写真の大半はオハイオで生まれた。

傾斜した茂みの前に立つ老人。暗い上着姿で両腕を少し広げて立っているが、顔の部分が白くにじみ、表情は見えない。
〈Emmet Dances the Jig, Kreiger Falls, Ohio〉(1974)。踊っていた老人の顔だけが白くにじんだ。© The 1988 Rexroth Family Trust

タイトルは子どものころの夏から来ている。彼女は親戚に会いに、アイオワで夏を過ごすことがよくあった。その記憶はあとになってからよみがえった。5年ほど撮ったところで米国立芸術基金(NEA)の助成申請書を書こうとすると、作品に名前が必要になった。そのとき初めて、写真たちを束ねているのが幼い日のアイオワだと気づいたという。彼女の説明は一文だ。"Iowa was a state of mind." アイオワは地名というより、心の状態だった。

ぼけにも基準があった

ぼけた写真をつくる方法はいくつかあった。カメラを手に持ったまま体を動かしてにじませた。バルブシャッターを短く2、3回押し、少しずつずれた露光を1コマに重ねることもあった。1975年にケンタッキー州ヴァンスバーグで撮った〈Waving House〉が、そうしてつくった写真だ。一軒の家が、手を振るように重なって見える。

2階建ての白い板壁の家を斜めに見上げたモノクロ写真。壁の角と窓が2、3重にずれて重なり、家が揺れているように見える。
〈Waving House, Vanceburg, Kentucky〉(1975)。壁の角と窓枠が2、3重にずれている。© The 1988 Rexroth Family Trust

だからといって、ぼけたコマを全部使ったわけではない。レックスロスは、ぼけがいくつもの層で同時に働き、現実が本当にそう見えたと信じられるときにだけ、そのネガを選んだ。彼女はこの基準を"The Integrity of the Blur"と呼んだ。ぼけの完全性、という意味だ。にじんでいるというだけでは足りなかった。にじんだまま、つじつまが合っていなければならなかった。

小さなフィルムで撮ったぼけた写真は、どこまで大きくできるのか。レックスロスの答えは、小さく焼くことだった。プリントはたいてい一辺4インチほどの正方形で、その大きさで形が持ちこたえなければ、さらに小さくした。モノクロ1枚に10時間から12時間かけることもあった。《IOWA》第3部の室内写真には、硫化調色の上に金調色を重ね、ピンクがかった淡い光沢をのせた。こうした工程を経た写真を、カメラのかけた魔法と呼ぶのは難しい。

ピンクがかった茶色のトーンの室内写真。天井と壁のモールディングが斜めににじみ、下の方のドア枠の向こうが白く光っている。
〈White Hole, Athens, Ohio〉(1971)、調色したゼラチン・シルバー・プリント。ドア枠の向こうは白く飛び、残りはピンクがかった茶色に沈んでいる。Cincinnati Art Museum, The Nancy Rexroth Collection · © The 1988 Rexroth Family Trust
葉のない大きな木が何本も家の前庭に重なって立つモノクロ写真。枝がにじみながら交差し、木々のあいだから奥の家が見える。
〈Trees Crossing, New Lexington, Ohio〉(1974)、セレン調色。枝がにじみながら交差している。Cincinnati Art Museum, The Nancy Rexroth Collection · © The 1988 Rexroth Family Trust

1977年の初版と2017年の改訂版

《IOWA》は1977年、レックスロスが立ち上げたヴァイオレット・プレス(Violet Press)から自費で出た。70点ほどを1ページに1枚ずつ、4インチ前後の大きさで載せた。40年後の2017年には、テキサス大学出版局が168ページのハードカバー改訂版を出した。出版社の説明によれば、それまで公開されていなかった写真22点が新たに加わった。序文はアレック・ソス、エッセイはアン・ウィルクス・タッカーが書いた。

ダイアナの外側のレックスロス

今回の回顧展で注目したいのはアーカイブだ。シンシナティ美術館は2017年から作家とともに作品を整理し、2021年にアーカイブの収蔵を終えた。ヴィンテージ・プリントだけで400点を超える。1977年版と2017年版《IOWA》のダイアナ作品がほぼすべて入っており、公開されてこなかった実験作もある。

フィルム1本分を横につなげたモノクロのポジ。いちばん左の1コマは暗い背景の前の正面の顔で、残りの7コマは顔が明るくにじみながら、少しずつ違う表情で続いていく。
ダイアナで撮った無題の連続セルフポートレート(オハイオ州アセンズ、1970)、ゼラチン・シルバー・フィルム・ポジ。1本のロールのなかで、顔がコマごとににじみながら続く。Cincinnati Art Museum, The Nancy Rexroth Collection · © The 1988 Rexroth Family Trust

ダイアナの作品の隣には、プラチナプリント、ポラロイドSX-70の転写、ガム・バイクロメートとサイアノタイプ、マウントしていないフィルム・ポジ、53枚のスライドショーが並ぶ。2000年代初めに低解像度の民生用デジタルカメラで撮った写真もある。作家の文書と道具、彼女が集めた名もないスナップ写真は別にまとめられた。美術館が整理したリストを見るだけでも、レックスロスをトイカメラ写真家という一語で呼ぶのは狭すぎる。

日の差し込む部屋のベッド。模様の浮き出た白いベッドカバーと枕、木の柱、スタンドがあり、右の壁に手の形の影が大きく落ちている。
〈Hand, My Mother's Bed, Arlington, Virginia〉(1970年夏撮影、2025年にフィルムネガからデジタル処理)。壁に手の影が大きく落ちている。© The 1988 Rexroth Family Trust

展示にあわせて研究図録も出る。キュレーターのナサニエル・M・スタインが編み、224ページに図版164点を収める。10月13日に刊行予定だ。

フィルターの時代に見直す《IOWA》

いまはボタン一つで写真をぼかし、光漏れをのせることができる。韓国でもロモグラフィーのDiana F+が120フィルムと一緒に売られている。ただ、レックスロスが使ったのは1960年代のオリジナルのダイアナで、いまのDiana F+とは別の製品だ。

フィルムの失敗や偶然を好むことと、その偶然を自分の言葉で飼いならすことは、どう違うのか。《IOWA》はその違いを見せてくれる。レックスロスはぼけたコマを選び出す基準を立てておき、小さなプリント1枚に一日の半分を費やした。上の写真も、にじんだところの内側を長く見ていると、ぼけがどう組み立てられているかが見えてくる。

展示情報

展示の紹介と公式の作品画像はシンシナティ美術館の展示ページに、アーカイブの構成はThe Nancy Rexroth Collectionのページにまとめられている。この展示は、10月にシンシナティ一帯で開かれる2026年フォトフォーカス・ビエンナーレの主要展示でもある。