フィルムを少しでもかじった人なら、「コダクローム」という名前に一度はハッとするはずです。あの色。赤がやけに深く、影までどこか温かかった、あのスライドフィルム。
ところが、そのコダクロームで1950年代のバンクーバーの裏通りを撮り歩いた人がいたと言うと、たいてい「で、それって誰?」という反応が先に返ってきます。Fred Herzog(Fred Herzog)。生涯のほとんどを無名で過ごし、70歳をとうに過ぎてから、ようやく世界に見つけてもらった写真家です。
仕事が終わると、街へ出た
彼は1930年、ドイツのシュトゥットガルトで生まれました。戦争で両親を亡くし、1952年、22歳でカナダに渡ります。翌年に落ち着いた街がバンクーバーで、彼はそこで生涯を送りました。
生計を立てた仕事は、意外にも写真作家ではなく病院の医療写真家でした。手術の場面や患部を記録する、ロマンとはほど遠い仕事です。本当の写真は仕事帰りと週末に撮りました。カメラ1台を提げて、街を歩き回りながら。1968年から数年はサイモン・フレーザー大学とブリティッシュ・コロンビア大学の美術学科で教えもしましたが、本業は最後まで病院のほうでした。
色こそが主題だった
彼がカメラを向けたのは、美術館に飾られそうな風景ではありませんでした。ネオン看板、中古車屋、ガソリンスタンド、安食堂、仕事帰りにバスを待つ人たち。当時は誰も「作品」とは呼ばなかった、ありふれた街の素肌です。
そこにコダクローム特有の色がのると、話が変わります。雨にぬれたアスファルトの赤い照り返し、ショーウィンドウの蛍光、人々のコートの彩度。ハーシュの写真で、色は飾りではなく主題そのものでした。モノクロが品のある芸術として扱われていた時代に、彼はかたくなに街の色を集めたんです。
彼は人もよく撮りました。メイン・ストリートの老人から、自分の下宿部屋の片隅まで。大きな事件ではなく、毎日すれ違う顔や場所にカメラを向けたんです。
コダクロームはなぜあんな色だったのか
ここで少しフィルムの話をしておきましょう。コダクロームは1935年に出たカラーリバーサル、つまりスライドフィルムです。ほかのカラーフィルムと決定的に違ったのは「色の作り方」でした。
ふつうのカラーフィルムは、色を出すカプラーをあらかじめ乳剤のなかに持っています。一方、コダクロームの乳剤は実質的にモノクロの感光層を3枚重ねたようなもので、色は撮影時ではなく現像の段階で、層ごとに光を当て直しながら染料をのせるコダック独自の工程で仕上がりました。だから町のラボでは手も出せず、世界に数えるほどしかない専用ラボでしか現像できなかったんです。
手がかかるぶん、見返りも大きかった。粒子が細かくシャープで、何より染料が長く安定しているので、何十年たっても色があせにくかったんです。ハーシュが50年代に撮ったスライドが2000年代まで最初の色のまま残っていたのは、ひとえにこのしぶとい耐久性のおかげ。ここは覚えておいてください。あとでまた出てきます。
20年先を行っていたのに、見えなかった
彼がカラーで街を撮りはじめたのは1953年です。ウィリアム・エグルストンがニューヨーク近代美術館の展覧会で「カラーも芸術になりうる」という論争に火をつけたのが1976年、スティーブン・ショアがカラーを引っさげて出てきたのも70年代。ハーシュは彼らより20年は早く、カラーフィルムを手に街に立っていました。なのに、なぜ誰も知らなかったのでしょう。
答えは少し皮肉なことに、彼が愛した媒体のなかにありました。コダクロームはポジ、つまりスライドです。プロジェクターで壁に映せばあの色がよみがえりますが、当時の技術では、スライドの色をそのまま移したプリントは事実上不可能でした。美術館やギャラリーは壁に掛けるプリントを求めているのに、ハーシュの手元にあったのは、映写しないと本当の色が出ないスライドの山。作品はもう撮り終えていたんです。世に出せる形に変える方法がなかっただけで。
スキャナーが連れてきた遅れた光
救いは意外にもデジタルからやってきました。2000年代に入ってフィルムスキャンとアーカイバル顔料(インクジェット)プリントが成熟し、ようやくコダクロームのスライドのあの色を、紙の上にほぼそのまま移せるようになったんです。何十年も引き出しで眠っていたスライドが、そこでやっとプリントになって壁に掛かりました。さっき話したコダクロームの耐久性が、ここで生きてきます。色があせていなかったおかげで、半世紀前の光が最初のままプリントされたのです。
2007年、バンクーバー美術館での回顧展。ハーシュはもう77歳でした。反響はすさまじく、展覧会はパリ、ニューヨーク、ベルリン、トロントへと続きます。2010年にはエミリー・カー美術大学の名誉博士、2014年にはカナダの視覚芸術の生涯功労賞であるAudain Prizeまで受けました。生涯無名だった人に、遅れてきた評価が一気に押し寄せたわけです。
道具の時間、人の時間
フィルムを使う身としてこの話が妙に心に残るのは、結局、道具の運命が人の運命を引きずり回すというところです。ハーシュが怠けていたわけでも、才能が足りなかったわけでもありません。彼が選んだフィルムが、その時代の出力技術とタイミングが合わなかっただけ。コダクロームは2009年に生産終了し、最後のラボが閉まって完全に歴史になりました。ところが、そのフィルムの色をいちばんしつこく証明した仕事は、フィルムが消えはじめたころになってやっと世に出たんです。順番がすっかり入れ替わってしまったわけですね。
ハーシュは2019年9月、88歳でこの世を去りました。幸い、自分の写真が壁に掛かり、人々があの赤の前で立ち止まる姿を十分に見届けてから旅立ちました。いい写真はいつか誰かが見つけてくれる。ロマンチックすぎて、ふだんはあまり信じない言葉ですが、ハーシュを前にすると一度くらい信じてみたくなります。ただ、その「いつか」が来るまでに50年かかったこと、そしてその時間を縮めたのが評論家ではなくスキャナーとインクジェットだったことだけは、覚えておきましょう。