ご存じのとおり、子どもたちはそれだけで完璧な被写体だった。とらえられた仕草はこれ以上ないほど自然で、日が沈む直前の光は私たちを完璧に包んでいた。

突然カメラの前に現れた子どもたちは、どんな演出よりも自然だった。笑ってと言わなくても笑い、立っていてと頼まなくても壁の前で立ち止まった。私はただ、その瞬間があまり早く過ぎてしまわないように、シャッターを押すことだけに集中すればよかった。

青い壁の前で笑う子どもたち
青い壁の前に立つ子どもたち。場面はもう用意されていて、私はその前にしばし行き着いただけだった。

光は、場面を選ぶ人より先に着いている。日が低く傾くほど壁はいっそう青く見え、子どもたちの顔には、まだ消えていない一日の明るさが残っていた。そのあいだで私は、自分が何を撮っているのかより、なぜこの場面の前で立ち止まったのかを考えるようになった。

私はまるでいっぱしの写真家にでもなったような気分で、突然現れた天使たちに、にやけながら「うまく撮れたでしょ?」と自慢したくなった。けれどそれより先に浮かんだのは、少し妙な考えだった。いい写真は自分がつくるというより、ほんのひととき許してもらうものに近い、という考え。

青い壁の前に一緒に立つ3人の子ども
子どもたちはほんの少し立ち止まり、光はその瞬間を長く残した。

とらえるということ

ドキュメンタリーを作っていると、待つことが時間のほとんどを占める。ある人の言葉に耳がなじむまで、ある空間のリズムが見えてくるまで、そしてカメラがあることがしばし忘れられるまで。写真もそう大きくは違わなかった。

いい場面はしばしば、苦労してつくった隙間よりも、何でもない時間の終わりにやって来た。カメラを持つ人が少し気を緩める瞬間。撮られる人が自分を意識しない瞬間。光と影がそれぞれの居場所を見つける瞬間。

写真はときどき、自分が見たものを残すことではなく、自分がまだ理解しきれていない時間を書き留めることのように感じられる。
青い壁の前の子どもたちと、近づいてきた子どもの顔
近づいてきた顔、遠くに残る笑い声。フレームは計画より先に揺れた。

残る余韻

この写真が長く心に残るのは、うまく撮れたからだけではないだろう。あの日の光、子どもたちの笑い声、得意になった気持ちと同時に少し恥ずかしかった気持ちまでが、一緒に貼りついているからだ。フレームの中に残るのは被写体だけではない。撮る人の態度も一緒に残る。

だから私は、この場面を見るたびに少し慎重になる。光がよかったと言う前に、子どもたちがかわいかったと言う前に、あの瞬間がほんのいっとき自分のところに来てくれたのだということを、まず思い出す。

光と影が残した余韻は、結局、私が撮った写真よりも、その前で私がどんな人間だったのかを、より長く問いかけてくる。

Yoon Dong-gyu
YouTube〈収集の収集〉を運営し、ソウルでドキュメンタリーを作っているPD。
Vol.01 Essay

Yoon Dong-gyu PDのエッセイ

光と影、偶然訪れた場面をめぐるYoon Dong-gyu PDの文章を、5ft magazineでお読みください。